今、とある本読んでるんですが。
イギリスの児童文学で、主人公の男の子が、おばあさんにいろいろ質問する場面があって。
気が付くと、すごく緊張してる自分がいるんですね。別に怖いシーンでも何でもなく、どちらかと言えば微笑ましい方で。男の子がこれから住むことになる屋敷のあれこれを尋ねるのは、ごく自然なことだし。
だけど、息を詰めてたんです。背中が堅くなってるし。「あれー? 自分、なんでこんなに緊張してるんだろう」と、ふと気が付いて。
このシーンの何に緊張? と自問した時頭に浮かんだ言葉が
『この主人公なんで質問責めにするんだろう。
適当に分かったふりをしてればいいのに』
いや、それ変じゃね? 分からないことを聞くのは普通だぜ?と。さらに疑問の奥を手繰ってったらひとつの『恐れ』が浮上しまして。
『くどくどしつこく質問すると、大人に怒られる』と。その瞬間、
「いいかげんにしなさい!」
「うるさい、あっちへいけ!」
「いつまでそんなくだらないことを言ってるんだ!」
「何でそんなことが分からないの!?」
「何度聞いたら気が済むんだ!」
…と言う大人の罵倒がわーっと聞こえたんですわ。空耳なんですけど、空耳じゃない。
自分が7つの子供になって、頭上から大人の声が降ってくる。そんな感じでした。
確かに要領が悪い分、子供の頃からよく怒られてました。そのうち『適当に返事をして分かったフリをしていれば、大人から怒られずにすむんだ』と言う妙な智恵がついて。
顔色を伺うばかりの子供になってました。
分からないことを、分からないというのは怖くないです。
知らないことを知らないというのも、怖いとは思いません。
たぶん、疑問を『質問』と言う形にうまくまとめられず、それで相手を怒らせる事実の積み重なりが『質問が怖い』、という形になったのでしょうね。
やっとの想いで言葉にしたものを、一蹴されたり否定されることには正直慣れません。ムッとしたり、悲しいと思った気持ちを、笑って流して無かったことにしてきた。それは誰もがやってるだろうことで、自分だけの経験とは思いませんが。
しかし、何十年分も積もったものが、まさかこんな形で自覚するとは…!
ちょっとばかり、愕然とする出来事でした。