久々の職場復帰は眠かったです。
今日はなんだか、おっちゃんなお客さんに、よく話しかけられました。話題は決まって尼崎の列車事故。「ひどいことになったなあ」「大変やなあ」と世間話風に話を振られて、こちらも「そうですねえ」と言いつつ精算。ただ、おっちゃん達は共通して、ある一言を口にしました。
「事故の責任を、運転手一人に負わせるのは酷やねえ」
職種が違うとはいえ、現場で働くものとして、何やら思うことがあるのでしょうか。
夕方、リハビリルートを通ったダンナが、事故現場を見てきたとか。野次馬はだいぶ減ったけど、その地域で生活する人々が居るため行き来する人自体は多かった。ちょうど、あの運転士が発見された時間で、花束を持ったJR職員を見かけたと言う。
「関西系のTV局スタッフは沈痛な面もちだけど、東京局のTVスタッフはヘラヘラ笑ってた」
と、ひどく不機嫌。たまたまかもしれないけど、あまりいい気持ちはしないのも確か。「客観性」と「他人事」は、別物なのですよ…。
ちなみにタイトルは、とある人の発言。今回の事故とは関係ないけど、運転士やJRの体質を考えるとき、この言葉がつきまとった。
この発言をした人は、何もかもに勝ち続け、失敗を犯したことのない人生を送っているのだろう。ある意味、羨ましい存在かもしれない。でも、後味の悪さだけが膨らみ続けるのは何故だろう。
オーバーランと言う失敗を挽回する為、目先の取り繕いに終始し、結果的に百数人もの人生を道連れに死んだ運転士は、言い訳さえ出来ない負け犬だろう。恐らく法で裁かれるだろうし、社会的にも許される存在ではないと思う。
でも、おっちゃん達の何気ない一言の方に、深い共感を覚える自分がここにいる。
断片的な報道を観る限りで言えば、あの運転手が恐れていたのは、「懲罰」であり「人命の損失」では無かったのかもしれない。教育とは名ばかりの懲罰の内容で、危機回避の知恵が育つ訳がない。
「『人間は失敗を犯すもの』である以上、必要なのは『失敗しないよう行動する』ことではなく、『失敗した時、どうフォローするか』だと思う」
ぷいぷいさんの、角さんの受け売りだけど、硬直した組織の中でその発想を育むのは至難の業だろう。時間も金もかかる。でも、やって貰わないと困る。死者を大量に出して現状維持では、あまりにも無策だ。
遺族が口にする「この悲劇を、繰り返して欲しくない」。JR側がこの意味を本気で理解し、実行してこそ、本当の供養になると思う。