半年前ぐらいだったかな。コンビニで仕事してたら、女の人が「車椅子の人が困ってます」と報せてくれまして。
店の前では、確かに側溝の蓋に車輪を取られて進めない人がいたんですね。店のすぐ前には病院があって、そこの患者さんだったのですが。
女の人は、私にこう言ったんです。
「私、看護士なんです」
「でもナントカ外で車椅子押して、何かあったら責任問われるから」
(ナントカの部分は、今は覚えてません。『担当区域外』なのかは分かりませんが、何となく、ニュアンスでそんなことを言っていた記憶があります。)
「押せないんです」
だから、私に頼む、と。そう言って、去っていきました。
まあ、私自身押すこと自体特に問題はないんで、患者さんの希望した病院手前まで押してあげましたが。
何というか、いろいろ考えました。
もし、責任が問われることがなければ、この看護士さんは、自分で押せたのかなとか。
都合の良い、保身の言い訳なのかもしれないけれど、看護士の背負う責任の重さは、私には計り知れないので簡単に口には出来ませんし。
でも、『責任』を口にするなら、せめて私が押してる間は傍に着いてて欲しかったとも思う一方、中途半端に手を出さないのも一つの筋、とも考えられます。だって、本当に万が一何か起きたら、必ず世間は「看護士が手を貸して怪我させた」とバッシングする事ぐらい、容易に想像できますしね。
「ちょっと車椅子を押すぐらい」かもしれないけれど、車椅子の操作って、結構、力が必要ですし。病院の廊下ではなく、車の走る道路の端、微妙に傾斜のかかった道を押して行くのは、正直「ちょっと」では済まないよなあ、という実感はあります。
そんなこんなをいろいろ考えるのですが、最後は結局、
看護士さんが、困ってる患者さんを助けられない『責任』ってなんだろう、
という謎に戻ってくるのです。
何かをすれば、責任を問われるのが当たり前の世の中です。その源が、個人なのか社会なのかは、立場や考え方で変わるのでしょうが。
『責任を問う』、ということは、確かに正しいのだけれど、小さな善意をげりげり削って、結果的に、住みづらい世の中にしていくものなんだなあと思った次第です。